柏尾の在所をすこし歩いて祐林寺を過ぎたところで柏尾川を渡ります
橋を渡って左にしばらく進んでいくと
丘に登る小道の下に姿の良い地蔵さんが立っています
旧青山町時代の広報誌に掲載されていた「あおやま風土記」を WEB版として公開されているサイトがあります そこでは昭和55年7月から平成9年4月までの17年にわたる記事をすべて閲覧することができます
地域の歴史や民俗は 知らないうちに消えていってしまいます
諸行無常ですね この世の一切は常に生滅流転を繰り返しています
実際に半世紀以上生きてみると そのことがよくわかるようになってきました
当たり前のことで 仕方のないこととはいえ
それだけに忘れずに伝えていきたいというきもちにもなります
光背の向かって左に「天文十四年巳乙十一月一日」、右に「庚申之供養祐心」の刻字銘があり、庚申さんであることがわかる
とあります
室町後期の古い地蔵さんです
寺脇の宝厳寺から阿保にかけて天文の在銘石仏は少なくはないのですが
それほど多くが残されているわけでもありません
ちなみに旧青山町内の天文11年以前の在銘石仏はほとんどが町の文化財に指定されていることからも 天文14年のこの地蔵さんの古さがわかります
どこかで見たようなお顔だとおもい 写真を探してみると
慈福寺天文七年銘地蔵石仏 |
阿保慈福寺の無縁塔に立っている地蔵さんとそっくりですね
天文七年(1538)の銘があります 同じ石工の手によるものではないでしょうか錫杖を持つ右手の小指を伸ばしています
寺脇宝厳寺参道の大きな地蔵さん こちらは天文8年の刻銘がありますが
この地蔵さんあたりからの流行のようです
張りのある体躯から跳ね上げた衣の先までが滑らかな線で表現されていて
そのあたりには比奈知型石仏の伝統も感じます光背右側の「庚申之供養祐心」と刻まれた文字からもわかるように
地元では庚申さんとして供養されています
そこで少し疑問におもったのですが
庚申さんの主尊といえばほとんど青面金剛さんですが そうなる以前には それ以外の仏さんが主尊とされてきた時代がありました 地蔵さんを主尊とした庚申塔も残ってはいるのですが これらは江戸前期の承応(1652〜1654)の頃と考えられています ですから天文14年(1545)のこの地蔵さんは100年ほど早いですね それに 庚申講が民間に広がる時期としても 室町後期は少し早過ぎないのかな?とおもったのです
ひょっとして 右側の刻銘は近世に入ってからの追刻ではないだろうか
帰り道でそんなことを考えていました
ところが 帰ってから 県史編さん室の「発見!三重の歴史」の電子版の中に
「庚申信仰 江戸期に流行-誕生寺・庚申塔に戦国期の年号」という記事を見つけました
津市一志町大仰の誕生寺の阿弥陀石仏の光背に天文十六年の紀年銘と庚申塔として建立された趣意がわかる刻銘が残っているというのです
砂岩に阿弥陀如来の立像を半肉彫にあらわし、像の両側に「庚申待衆八人」「天文十六丁未十二月十三日」の刻銘がある。
写真も出ていて 立ち姿の阿弥陀さんの右側に はっきり「庚申待衆八人」と刻まれています 左側に刻まれた紀年銘を刻んだ文字と全く同じで 建立時の刻銘だとおもわれます
どうやら天文の頃から地蔵さんや阿弥陀さんを主尊として庚申待がおこなわれていたようです 柏尾の地蔵さんも その古い例を伝える地蔵さんだということがわかりました
地蔵さんの横の小道は旧な坂道になっていて 登っていくと享保の銘のある役行者さん
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