2023年2月26日日曜日

赤目地蔵 名張市赤目町長坂


県道赤目滝線の黄竜橋から赤目滝までの間
県道の対岸の山裾を通る赤目街道の古道がハイキング道になっている
昭和40年頃にハイキング道に改修されたそうだが
滝から離れているのと
今日はキャンプ場も休んでいるので歩く人かげも見えない
その古道脇の磨崖に刻まれた地蔵さんである
室町末から安土桃山時代の作とされている
今まで二度三度と訪ねているが 
今日ようやく見つけることができた
磨崖の表面を均して 80cmほどの高さの地蔵さんを線刻している
素朴なやさしい姿の地蔵さんである
さっき通ってきた黄竜橋
東の青竜 南の朱雀 西の白虎 北の玄武 それら四神の中央を守る竜だ
赤目滝は黄竜滝と呼ばれた時代もあったらしい
また四十八滝と呼ぶのは 阿弥陀四十八願に因んでいるらしい
だから阿弥瀑布と呼ばれた頃もあったそうだ
道教の神も浄土の仏も すべてが混淆した山の神の濃厚な気配
赤目滝は私みたいな臆病者にはなにか恐ろしい
どんな人が刻んだろうか
修験の行者が なんまいだんぼ なんまいだんぼ と唱えながら
刻んだろうか

※ 特養ホーム名張もみじ山荘のところで滝川を渡って 駐車場を川に沿って左手に進み 駐車場の端から階段を上がっていくとハイキング道に出ます そこから左に進んで100mほどのところです 

2023年2月25日土曜日

桂畑の地蔵石仏 津市美里町桂畑

 

仕事で初めて通りがかったとき
「静かで明るいええとこやなあ」とおもった
桂畑は津市西部の静かな山郷である
当時 桂畑から通っている人がいたので 
「桂畑て いいところやなあ」と言うと「地蔵踊り」の話になった
江戸時代から伝わる伝統行事で  毎年8月24日に洞雲寺の境内で開催されている
五穀豊穣と安産・子宝を願って 夜遅くまでたくさんの演目が踊られる
「いっぺんおいなあい あんないするで」
と言ってもらった
その時は 毎日のように顔を合わせる人と
いつでも行ける 今年でも 来年でも そんな話をしているとおもっていたのに
あれから5年ほどしか経っていないが
遠い昔のことのようで その人とも もう二度と会えないような気がして
少し寂しい気持ちで思い出す
桂畑川が在所の入り口近くで南長野川に流れ込んでいる
そこから桂畑川の左岸を山手に向かって歩くと 
すぐ右手の小高い場所の覆屋に地蔵さんがおいでになる
子安地蔵さんである
穴倉石に童形の地蔵さんが半肉彫りされている
割れてしまっているが石を彫り窪めた小さな龕部に納められていて
大切にされていたことがわかる 
お顔も撫でた跡がはっきり残っている
川に沿ってさらに進と また地蔵さんの覆屋である
こちらは自然石の表面に『延命地蔵菩薩』と刻まれている
その左右に紀年銘もありそうだが読みとれない
在所を出ると 拡幅された道路の法面にも 何体かの地蔵さんが覗いている
悪い物が入ってこないように 路傍に置かれていた地蔵さんだろう
花があげられてきちんとお祀りされている様子がほほえましい





2023年2月24日金曜日

四十九の地蔵磨崖仏 伊賀市四十九町

 

伊賀には変わった地名が多いのだが 「四十九町」という地名もそうだ
行基の四十九院と関係があるのかなと思って調べてみた
「伊水温古」を広げて 四十九町にある寺院「弥勒堂」を探してみると
あった 廃寺になる以前の寺号「弥勒院」として その所在を『四十九院村』と記している 中世にはそう呼んでいたようだ
そして
『聖武皇帝行基菩薩ニ勅シテ 一國ニ一箇ノ精舎ヲ造リ土卒ノ内院ヲ模四十九院ヲ造立ス 往日ハ此里ノ名ヲ田守ト云 四十九院ヲ造立スルヨリ号四十九院トノ郷談也』 
とある 
やはり「四十九町」は 行基開基の四十九院に因んだ町名だ
すると弥勒院(現在の弥勒堂)は行基が建てた四十九院のひとつだったのだろうか
弥勒堂
兜率天の内院は 中央の摩尼宮殿で弥勒菩薩が説法しておられて その四周に各々十二院が置かれているので 合計すると四十九院になる 四十九という数は この兜率天内院の四十九という数に因んだものと考えられているので 弥勒仏を本尊として祀る弥勒院が四十九院に連なる系譜を持つとしても不思議はない 

四十九院は一般的な寺院と違って 火葬場を付帯するなどして 庶民の葬送と深く関わった道場なので この辺りでは浄土信仰も盛んだったことだろう
四十九町の西隣 守田町には立派な十三仏の磨崖仏が二基ある 
先の「伊水温古」の中に『往日ハ此里ノ名ヲ田守ト云』とあったが 
守田町の名前の由来も この「田守」と関係があるのかもしれない 
守田町の二基の立派な十三仏も 四十九院・葬送・浄土信仰 これらを背景としているとしたら より納得がいくなあとおもう
考えながら好きなことを書き連ねているうちに 前置きばかりになってしまいました
弥勒堂から守田九品寺へとたどる道の途中 
小さな木立の中に隠れるような磨崖の地蔵さんが立っておられる
磨崖の表面に薄い舟形を彫り その中に薄肉彫りされた地蔵さん
右手に錫杖 左手には宝珠を持っている
街道沿いの在所の集落が尽きところ
磨崖の背後の路傍では山神さんも警備のお仕事をしておられる
この地蔵さんも 「四十九」という土地の名前と繋がりがあるのだろうか
 





2023年2月22日水曜日

大湊墓地のお大仏さん(おぼとけさん) 伊勢市大湊町

東の阿弥陀さん

大湊墓地には大きな二体の仏さんが座っておられる
墓地に入ってすぐ見える東側の仏さんがお釈迦さん
墓地の西側に見える仏さんが阿弥陀さんである

現地の案内板から引用させていただいた

『お大仏さん(おぼとけさん)    伊勢市大湊町振興会
大湊住人の山中道喜が京都の道栄堂素という人と知り合いになり、大仏建造の世話方を依頼すると、堂素はこれを受けて伊豆の下田で石を求め、江戸で名高い石工に大仏つくりを依頼して一年後、元禄8年(1695)9月に坐像されました。県内では最大の石仏です
西 阿弥陀如来像 東 釈迦如来像 』
  
東の阿弥陀さん
こちらが東側のお釈迦さん 像高170cm 
西の阿弥陀さん
こちらが西側の阿弥陀さん 像高167cm
印相を見ると お釈迦さんは法界定印 阿弥陀さんは阿弥陀の定印を結んでいるので 見分けることができる
西の阿弥陀さん
お釈迦さんはこの世から念仏者を極楽へ発し遣わし(発遣) 阿弥陀さんは極楽からこれを迎えに来てくれる(来迎) だから遣迎の二尊というらしい

2023年2月21日火曜日

西光寺の魚籃観音 伊賀市槇山

中国唐の時代に魚売りの美しい女性がいた たくさんの男たちが求婚したが 魚売りの女性は『観音経』『金剛経』『法華経』を暗唱できることを結婚の条件にあげたので 男たちは競って経典を暗唱した そして全ての経典を暗唱した一人の若者に嫁ぐことになった しかし女性は暫くして亡くなってしまう 実はその女性は三つの経典を広めるために出現した観音さんの化身であった 

というのが魚籃観音さんのお話し 中国生まれの観音さんである
西光寺の墓地 無縁墓の片隅で立ってみえた
大漁祈願や海上安全を願ってお祀りされることが多いらしいが
ここのように墓地においでなのは法華経の滅罪の功徳を勧めてということだろうか
唐風の衣を着て魚の入った籠を手にしている
足は裸足というのもお決まりらしい
伊賀焼のふるさと 山門の仁王さんは陶製

2023年2月19日日曜日

円座町の青面金剛 伊勢市円座町


正覚寺の門前にある道饗社
「道饗社」とは珍しい名前の神社だ 鳥居をくぐって境内に入ると 庚申さんのお堂が建っているだけで 神社の本殿らしき建物がない 不思議におもって調べてみた

神祇令に定められた祭りの中に「道饗祭(みちあえのまつり、ちあえのまつり)」というものがあったらしい 毎年6月と12月の2回 京の都の四隅に八衢比古神(やちまたひこのかみ) 八衢比売神(やちまたひめのかみ) 久那斗神(くなどのかみ)の三柱を祀り 幣帛をたてまつって 都の外からやって来る鬼魅や妖物を路上で饗応し 都への侵入を防いだのだという 疾疫が起こった時は地方でも斎行されたらしい

 柳田國男も『地名の研究』の中で触れているというので そちらも調べてみると
『武蔵の村々に饗庭あえばという地名かまたは家名が多いが、相場もこれと同じく、ともに道饗祭みちあえまつりすなわち邪神祭却の祭場のことであろう。また北武蔵などに多いアイノ田「間の田」という字も単に里と里との境の意味でなく、饗場の田ではあるまいか。二万分一図で見ると、古川跡の田に開かれた所に「間の田」が多い。すなわちあまり古い地名でないことがわかる。』

饗庭(あえば)という地名は聞いたことがある 藤原町に饗庭神社があるが ここは道饗祭(みちあえまつり)の祭場だったということがわかる その饗庭神社をネットで検索すると

『当神社は往古村をもって社号とするその名饗庭村といい当時は神宮の御厨地であった。
享保年間、この地域に災害多く凶作飢饉が度々あり悪疫が流行した為これらを退散させたいと願い京都祇園感神院祇園社(八坂神社)より牛頭天皇勧請しこの神社を牛頭天王社と称された。 慶応4年(1868年)神仏判然令が出され素佐鳴命を御祭神としてさらに天照皇大神と共に神社名を饗庭神社とし、現在に至る。』

他にこの辺りに「饗庭」はないか これも検索してみると 明和町大字佐田大庭神社がヒットした

『「神社明細帳」に当社は従来大庭八王子と唱えしを明治5年に八王子の号を廃して大庭神社と改称す、大庭は饗庭の…訛言せしなり。本郡内井内村の西に饗庭あり。…続日本紀に天平7年8月勅して曰く頃日疫死する者多し。諸国の守若くわ介に専を齊戒道饗の祭祀せよとあるを始めとして…道饗の祭場を饗庭と号す。…道饗神の疫神と称するに依り陰陽家の祭る疫神に混じ八王子と訛伝し来たれり。…道饗の旧祭場たるを証すべし』 

なるほど 庚申さんは道の神様として集落の中に疫病やら悪いものが入ってこないように結界を守ることを任務とされているが この「道饗社」は上古以来のこの「道饗祭」と結合した場所のようだ 不勉強だったが こうして疑問が氷解していくとすこし嬉しい
お堂の中には庚申塔と青面金剛さんが並んでいる
右側の庚申塔は伊勢市内で最古の庚申塔だという
美しい青石の最上部に阿弥陀の種子 キリーク ह्रीः を陰刻し
『天正八年庚辰八月十三日』の紀年銘がある
『奉供養庚申待 現世安穏後生善所』と願意が刻まれているのも伊勢市内で二例だけと珍しいらしい
残念ながらキリークを囲む円輪以外は明瞭には見てとれない
左側の青面金剛さん
『享保四年己亥年八月吉日』と銘がある
三面六臂 上部に日月 右手に戟と矢と剣 左手に宝輪と弓と三鈷
見えないが下部に一猿一鶏があり 邪鬼を踏んでいる 


2023年2月18日土曜日

悟真寺の光明真言碑 鈴鹿市白子本町


鈴鹿市白子本町の悟真寺 とても大きな立派なお寺で驚いた 
浄土宗の中本山格だそうで 往時には「伊賀堀」と呼ばれる百間堀が城の濠のようにお寺を囲んでいたのだという
鈴鹿市内には三基の光明真言碑が残っている 神戸観音寺に一基と ここ悟真寺の一基と あと神戸城跡地から見つけられたものが一基あるとおもうが 悟真寺の光明真言碑は損傷も少なく最も完全な姿を残している

高さ80cmほどの自然石に真言が刻まれていて板碑の体はとっていない
五行にわたって刻まれた陀羅尼の中央下部に
『 嘉暦四(1329)明本 』
とあるはずだが 写真が不味くてよくはわからない
神戸観音寺の光明真言碑にも
『 元應ニ庚申 (1320) 明本作 』
とあり 明本さんという同じ名前が出てくる
すると 観音寺の九年後に 同じ明本さんが刻んだものだろうか
もうひとつ不思議におもうのは 
神戸観音寺は真言宗御室派だから 光明真言碑があっても不思議はない 
しかし ここ 悟真寺は浄土宗知恩院派である
空海の教えは専修念仏だから 陀羅尼を唱えたりすることはしない
石に刻んだ真言を 寺院に置いてお祀りするということはなかったはずだ
もっとも 称名念仏以外の諸行も阿弥陀の本願行であるとした九品寺流というのもあったが
法然の諸行非本願の教えに違背するとして 一部の地域でしか広がっていない
この光明真言碑は 昭和49年に寺院内の墓地の地中から見つけられたそうだ
ある時期からは 浄土宗の寺院に相応しくない不要なものとなり ずっと埋められていたのだろうが 建立された当初はどうだったのだろう 寛容に受け入れざるを得ないほどに 光明真言は庶民の生活の中に浸透していたということだろうか 
そしてこちらは悟真寺の墓地の六地蔵さん 
かと思ったら どう見ても地蔵さんではない
え? 六観音さんか?
すると左から4体目は三面六臂の馬頭観音さんか? 
その左は螺髪の様子から十一面観音さんかもしれない
右端の多臂像が千手観音さんか?
覆屋の修繕で作業をしてみえたので 長くお詣りすることはできなかった
近日中にもう一度ゆっくりお詣りしたいとおもう




2023年2月12日日曜日

宝寿寺の青面金剛 伊勢市津村町

津村宝寿寺の境内の庚申さん 左の庚申塔には寛永三年の刻銘があるらしい
右の青面金剛さんは明和四年
三面六臂 右手には戟と矢と剣? 左手には宝輪と弓と人
踏んでいる邪鬼が面白い顔をしている

2023年2月9日木曜日

養徳寺の一字一石観音と青面金剛 松阪市矢津町

松阪市内には中世の在銘石仏が少ない
わたしが知らないだけかもしれないが 
永禄四年銘の天華寺墓地の地蔵さん 天正八年銘の合ヶ野の地蔵さんくらいしかおもいつかない
神宮との関係が深い土地柄ということもあるのかもしれない 
近世に入るまで集落が未発達だったのかもしれない
あるいは廃仏の影響か

矢津町の養徳寺にも 永禄元年の地蔵さんがおいでと聞くが
いまだにお会いできずにいる
諦めきれずに 少し前にも バイクで訪ねてみた 
境内に立つ観音さん
光背を見ると 
『普門品一巻 壱石一字納瓶』とある

普通は逆さまに読んで 「一字一石経」とか「一字一石経塚」とか「一字一石塔」
などと言うが 
小さな石ころに一文字ずつ経典を書き写して地中に埋めて そこに石塔などを建てて経塚とすることが江戸時代に流行した

「普門品」は法華経の中の観音経のことで
一巻 2,500文字くらいだろうか 一つの石に一文字ずつ書写して 瓶に入れて埋納した
ということだろう
青面金剛さん 一面六臂で一部に彩色の跡がある

2023年2月4日土曜日

観音寺の光明真言碑 鈴鹿市神戸


元応二年の銘を刻んだ光明真言碑を拝見するために 鈴鹿の神戸にでかけた 
実は以前にも訪ねたの 写真も撮らせていただいた
なのに 帰ってカメラの蓋を開けたら SDカードが入っていなかった
老眼のせいかと しばらくやる気をなくしていたのだった
観音寺の境内に小さな覆屋があつらえてあって
光明真言碑はそこに安置されている
最上部に梵字ア字 अ の下半分が薄く大きく彫られていて 
その下に光明真言が三列に彫られている
元は五輪塔板碑だったと考えられている  
それはたぶん 最上部にア字が残っているからで 
五輪塔の 空  風  火  水  地  に対応する五字真言が
上から ケン  खां  ウン  हूं  ラ  र,  ビ  वि  ア  अ  と刻まれていたのだろう
光明真言の下には
元應ニ庚申 明本作
とある
石工の手ではなく 僧明本さんが自分の手で刻んだものとみられている
素朴な味わいのある 良い文字だとおもう
光明真言は滅罪の陀羅尼といわれる

オーン 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ 
オン アボキャ ベイロシャノウ 
唵 阿謨伽 尾盧左曩 

偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ 
マカボダラ マニ ハンドマ 
摩訶母捺囉 麼抳 鉢納麼 

光明を 放ち給え フーン(聖音) 
ジンバラ ハラバリタヤ ウン 
入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽 

※wikipediaより引用
長くコロナ禍が続いている
墓地の六地蔵さんらも感染対策に怠りない

2023年2月2日木曜日

霊山寺の観音石仏 多気町三疋田



多気町の山中で奈良時代の観音さんが発見!と聞いて  
早速出かけることにした
多気町三疋田の空釈寺  その境内に観音堂が建っている
こちらは霊山寺の観音堂なのだが 今は空釈寺さんが管理されているようだ
お堂の中には平安時代の二体の十一面観音さんがおいでで 
県の有形文化財に指定されている

空釈寺に伝わる『三疋田村霊山寺観音略縁起には
「当村の南の高山の頂上に伽藍を造営し、この二尊を安置す。その古跡今に堂の広という この地遠隔にして風雨の時参拝に不便なので、現在地に移し奉る」とある

その霊山寺の旧地「古跡堂の広」は「田見山」という山の「下駄のはま」という場所らしい
三疋田の南西に2キロほど離れた山中に近長谷寺のある城山(291m)がある その城山の北東の尾根辺りがではあるまいか 
先の霊山寺観音略縁起には天明六年(1786)の銘があるので 江戸中期頃まではその辺りに霊山寺はあったのだろう

さて今回の 奈良時代の観音さんが発見! はこうだ
霊山寺の旧地には観音さんの石仏があったと文献にあるそうで 地元の有志の方が何度も山に登って探されたらしい
あるとき滑って転んでしまい ふと前を見ると石仏の顔が見え そこを掘って探すと三つに割れた観音さんが見つかったという
三つに割れていたものを修復して 現在の霊山寺境内に祠を立ててお祀りされている
長い前置きになったが そういうことだ
格子戸の隙間から写真を撮らせてもらった
右手に錫杖 左手は胸の前で宝珠を持って 地蔵さんの姿をされている
頭上に金色の 多分 観音さんだから宝冠を被っておいでか
石仏をめぐっていると 色々な地蔵さんと出会う
中には汚水の沼に 打ち捨てられたような地蔵さんもあって 心が痛むこともある
きょうは三疋田の観音さんに出会えてよかった
これほど大切にされてみえる観音さんは 他に知らない
奈良時代というのはちょっとオーバーかとおもうけど…