2023年1月26日木曜日

前村の石地蔵と青面金剛 多気町前村

国道42号線 前村のバス停から紀勢本線の方への道を降りていくと
すぐのところに小さな地蔵堂が建てられている
中を覗き込むと 青石に彫られた立派な地蔵さんだった
多気町史の「佐奈地区の伝説」の中に こんな話が載せられている

元禄の頃、村人が山で立派な石を見つけた。石橋にすべく運び出しにかかったところ、いっかな動きそうにない。村人は思案し直して地蔵に彫った方がよいと決めた。そうしたところ、石は急に軽くなり難なくこの地まで運べてこの地蔵ができ上がった。
元禄六年(1693)癸酉二月吉日の紀年銘があるらしいが 格子の隙間からは見つけられない
像高126センチということで お堂の中ではかなり大きく見える
山地の法面などで見たなら磨崖仏と呼んだだろう
お堂のそばには青面金剛の祠があった その右側には陰陽石を前に水神碑が立っている
弥生人のような姿をした青面金剛さんである


2023年1月25日水曜日

横滝寺の不動明王石仏 松阪市伊勢寺町

 
横滝さんにお祀りされた不動さん 
役行者さんの隣で五大明王のセンターを勤めていなさる
右手に利剣 左手に羂索を持って 岩座に立っておみえだ
光背には迦楼羅焔が燃えさかっている 迦楼羅は興福寺の国宝館でお馴染み 八部衆の中の鳥頭人身のあの迦楼羅天のことだ 迦楼羅焔はその迦楼羅が吐く金の炎のことである
眼病に効験があるといわれていて 毎月14日の観音さんの命日にはお詣りが絶えない
参道階段の傍らに湧水の小さな滝がある 水垢離をとる人もあったろうか
そこにも小さな不動さん



2023年1月24日火曜日

伊勢街道垣鼻〜櫛田 ⑤ 願證寺の青面金剛 松阪市豊原町

伊勢街道を櫛田川を目指して歩いてきたが ようやく終点の豊原の在所である
おもん茶屋跡の建物の右手の小道を入っていくと願證寺だ
境内から墓地に続くあたりに小さなお堂が二棟立っている
手前が地蔵さん 奥が青面金剛さんがお祀りされている
三面六臂の青面金剛さんである
右手に三股叉 矢 金剛杵? 左手に宝輪 弓 人
光背上部にうっすらと月輪と日輪 邪鬼を踏みしめている 猿や鶏も彫られていそうだがよくはわからない
地蔵堂の地蔵さんは丸彫りにされた童形の美しい地蔵さんだった 
伊勢街道を垣鼻から櫛田川まで歩いてきたが 街道の路傍に地蔵さんを見かけることは本当に少ない 伊勢の廃仏毀釈は苛烈であったという 同じ伊勢街道でも斎宮の辺りを歩いていると
明治の頃に廃寺になったであろう街道沿いの空き地に今は在所の会所が立っているのをよく見かける この辺りの地蔵さんも 池や田んぼに沈めてしまっただろうか
少し調べてみた

「伊勢は天皇家の先祖を祀る伊勢神宮の門前町だから徹底した廃仏毀釈が行われた 明治初年に山田奉行所に度会府が置かれ 攘夷派の公卿である橋本實梁が 府知事に任ぜられると 着任早々伊勢の仏葬を禁止し神葬祭を命じている そして寺僧に対しては 廃寺に応じて還俗したら寺の建物などの個人所有を認めるが 廃寺しない場合はすべてを没収すると言って廃寺を迫った その結果 「寛文10年(1670)に発生した山田大火以前の寛文六年には寺院が371寺、江戸末期の安政二年(1855)でも120もの寺院があった。〜中略〜 宇治と山田合わせて109の寺が廃寺に追い込まれたという」 ※「廃仏毀釈」 畑中章宏著

では伊勢の周辺地域ではどうだったかというと 
「廃仏毀釈への取り組みは伊勢周辺でも地域により、また知事の考えかたによって差があったようで、隣接する田丸藩の管内では一つの寺院も廃寺にならなかったという。」 ※「廃仏毀釈」 畑中章宏著

そして松阪はというと
「松阪では当初、大々的な廃仏毀釈は免れていたが、元紀州藩士舟橋広賢が神職になり、この地に移住してきたことで状況が悪化した。舟橋は仏式の葬式から神葬祭への転換を大々的に押し進めた。」 ※「仏教抹殺」 鵜飼秀徳著

とはいえ 現在の市内で神葬祭を見かけることはほとんどないし 寺院が密集する中町などの寺町的様相からも 松阪での廃仏の動きは比較的穏健なものだったようにおもえる
そして道々出会った青面金剛さん もしも淫祠邪教の類であるからけしからん という風潮の中で石仏が破却されたならば 修験に近い青面金剛さんは最も危なかったのではないだろうか
願證寺境内の大狸
石仏の写真を撮るときに 像を動かして紀年銘を確認するといったことは わたしはしないし 目利きもできないので これまで写真で紹介した青面金剛さんらも造立の年代はわからない 
伊勢市内の青面金剛像については調査されて出版されている ※「伊勢市の石像遺物」伊勢市教育委員会
そこから造立された時代をみてみると
江戸前期 1 江戸中期 11 江戸後期 9 近代 3 無名 26 
わたしは3割程度は近代まで下るかと想像していたのだが ほとんどが江戸中後期のものだと考えてよさそうだ 松阪の辺りも傾向としてはほとんどかわらないだろう

すると 青面金剛さんが江戸時代を通じて残されてきているということは 地蔵さんだけが受難して破却されたということはないだろうから きっと初めからこの地域には少ないのだ
おもん茶屋はへんば餅を名物にしていたという


2023年1月22日日曜日

伊勢街道垣鼻〜櫛田 ④ 八柱神社参道の青面金剛 松阪市上川町

徳和坂を下り金剛橋を渡って徳和綴をすぎると下村
そして次の在所は上川である
街道の北側にひときわ大きな常夜燈が見える この辺りから上川だ
常夜燈の正面には『三社燈籠  万人講』裏に廻ると『干時天保二年  丙申九月吉日』とある
上川村には文政七年(1824)に参宮の旅人への接待所が建てられている
松阪の紀州藩勢州奉行所の指図であったのか 街道沿いの商人による施行であったかはわからないが お蔭参りの起こる「お陰年」は60年周期でやってくると考えられていたので 明和八年(1771)のお蔭参りから60年後の天保二年(1831)という年も意識した処置だったろう 先ほど見た常夜燈の建立が天保二年であったことも このお蔭参りと関連したものだとおもう
実際にお蔭参りはその前年文政十二年(1830)から始まった 文政のおかげまいりと呼ばれている 文政のお蔭参りには日本人の六人に一人が参加したした計算になるらしい 宮川の渡しを一日に23万人が渡ったという 道幅二間ほどの街道をひしめき合うように人が通ったのだろう 松阪では道を渡って向かいの家に行くことすら難儀した言われている 
さて 上川の在所のほぼ真ん中に鎮座する八柱神社
参道入口に青面金剛さんの祠があった
左手に三股叉 矢 金剛杵? 右手に宝輪 弓 人?
邪鬼を踏んで 足元に三?猿
庚申さんの日は60日に一回巡ってくる 60年に一回巡ってくるお蔭参りと何か関連があるのだろうか 青面金剛さんは猿田彦さんとの習合も考えられるので 道中安全などの意図もあっただろうか 街道から見える庚申さんを眺めながら想像が飛躍してしまう  
八柱神社から少し先に進むと側溝のたもとに置かれた石 この辺りの伊勢街道沿いの在所は 何本かの水路が街道と直角に交わっている そのような場所に常夜燈があったり このような石が置かれていたりして 道切りの結界を守っているようだだが そんな所で普通よく見かける山神さんや地蔵さんはかなり少なく感じる
 

2023年1月21日土曜日

伊勢街道垣鼻〜櫛田 ③ 下村町の地蔵石仏 松阪市下村町

松阪の旧市内には石仏が少ないのだが この辺りもそうだ
庚申さんがお祀りされているところでは 青面金剛さんの姿を見ることができるが
地蔵さんはというと ほとんど見かけることがない
伊勢街道の下村の辺りで 路傍の祠を覗いてみたら 地蔵さんが座ってみえた
徳和坂の頂上 (第五小学校の辺りだが) から櫛田橋まで 4.5キロほど歩いたとおもうが
街道から見える範囲では この地蔵さんただ一基だった
参宮の道中だから 伊勢の神さんに憚ってのことか 
 
右手に錫杖 左手に宝珠を持って 片脚は踏み下ろして雲座に座っている
立ち姿の地蔵さんではなく半跏の地蔵さんである この辺りでは殆ど見かけないのではないだろうか めずらしい地蔵さんにお会いできた
この姿の地蔵さんは延命地蔵とすることが多い 延命長寿と短命の難から免れるということだから 水難者の供養と川辺で子らの安全を見守る地蔵さんだろうか 


2023年1月20日金曜日

伊勢街道垣鼻〜櫛田 ② 金剛橋北詰の青面金剛 松阪市垣鼻町

前に紹介した徳和坂の青面金剛さんから坂を下って金剛川のたもと
徳和自治会公民館の前にも青面金剛さんの祠がある
先に触れた 蛍見物で賑わったあたりだろうか
そういえば子供の頃には この金剛橋を渡ったところの三叉路に酒屋があった
いや 2〜300年も前のことだろうから 関係があるはずもないか…
はめ殺しの格子戸の隙間からなので ケラれてしまうのだが
一面六臂の青面金剛さんである
右手は矢 棒? 金剛杵? 左手は宝輪 弓 人
光背上部に月輪と日輪 下部に雄鶏と雌鶏  足元に三猿 邪鬼を踏みしめている



 

2023年1月17日火曜日

伊勢街道垣鼻〜櫛田 ① 徳和坂の青面金剛  松阪市垣鼻町

松阪市垣鼻町といってもけっこう広い範囲に広がっているのだが およその言い方をすれば 北の端を愛宕町と接して そこから伊勢街道を南に下って松阪の外に出るまでの街道沿いの町である 松阪の入り口にあたる場所 なので垣鼻と呼ばれた
徳和坂で旧街道を見下ろす青面金剛さんである 
この徳和坂を下りきって金剛川をわたり 四ツ又の手前 現在の上徳和橋あたりまでは徳和綴と呼ばれたところで 胎み女人形の見世物や 名物の徳和の白酒屋など 参宮客相手の店が立ち並んでいたそうだ 江戸中期には蛍茶屋 などもでていたという
坂はさかい=境である。 内部/外部をつなぐ坂という名の境界。 ※『境界の発生』赤坂憲雄
そこは異郷の人をもてなす場所であり また疫病や害虫などの厄災や 恐ろしい魔性のものが入り込もうとする異界との境である
道切りの結界を守りながら どんな風景を眺めていたのだろうか
三面六臂 右手に三股叉と矢と利剣 左手に宝輪と弓 左の真手の持物はよくわからない 
光背上部に月輪と日輪 下部に雄鶏と雌鶏  足元に三猿 邪鬼を踏み締めている
その裏にもう一体 おそらく先代の青面金剛さんだろう
三面六臂 右手に戟と矢と利剣か 左手に宝輪と弓と人を持っている
光背上部に月輪と日輪それぞれに瑞雲 下部に雄鶏と雌鶏 足元に三猿 邪鬼を踏み締めている


2023年1月15日日曜日

和歌山別街道の馬頭観音 多気町前村


先日の子安地蔵院でお会いした馬頭観音さんは一面二臂のお姿だったが こちらは三面八臂の馬頭観音さんです 
観音さんといえば優美なお姿をされているのが常だが 馬頭観音さんは 怒髪天を衝く憤怒の姿である 馬頭観音さんは観音さんらの中では六道の中の畜生道を担当されているので それらを教化して善導するためには激しく厳しいお姿が必要ということだろうか 
頭上 頭髪の間に馬の頭を載っている 馬頭観音さんのシンボルのひとつだ 馬が猛烈な勢いで草を食べるように 衆生の煩悩を食い尽くしてくれるという
真手は胸の前で人差し指と薬指を折り中指を立てて両掌を合わせる馬口印を結んでいる
右手は上から斧 金剛棒 施無畏印 左手は金剛輪宝 蓮華 念珠を持っている 
街道の路傍で 旅の道中の安全を見守っている



2023年1月14日土曜日

子安地蔵院の石棺地蔵 津市中河原

寒中だというのに四月並みの陽気ということでありがたい
出渋ってばかりいるのもなんなので 気合を入れて出かけてみることにした

津市中河原の子安地蔵院である
ご本尊は鎌倉時代に制作された絹本着色地蔵菩薩画像で国の重文に指定されている 安産や育児に御利益があるらしい
境内に安置された石棺仏 地蔵さんが刻まれているのは石棺の蓋である
家型石棺の蓋の内側を使ってあるらしい 想像していたよりはるかに大きい
石材の幅は140センチほどというので もしこれが短辺ならば 下半分ほどが土中に埋まっている可能性がある 
地蔵さんは右手に錫杖を持ち 胸に宝珠をささげているように見える 
よく見ると(というと失礼かもしれないが)よいお顔の地蔵さんだ 石板の厚みが薄いため 肉を厚く造作しにくかったのか 延ばしたお餅のようなお顔だがなかなかインパクトがある
案内板に『石造地蔵尊奈良時代』とあるが 石棺は古墳時代後期のものだという 地蔵さんの方の時代はずっと降るだろうが それほど新しいものでもないような気がする 
久居元町真光寺の地蔵さんとよく似た風貌だ
馬頭観音さんだろうか 同じ境内にお祀りされていた 馬頭観音は多面多臂の造像が多いがこちらは一面二臂